プロフィール

 

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底抜けに明るいマナノヤが、これまでにどんな人生を歩んできたのかを綴っています。

 

 

何だか周囲と違うわたし、でもどうしていいのかわからず・・・

 

わたしは北陸地方にある、緑豊かな田舎で生まれ育ちました。
そこで流れる時間も、とても緩やかなものだったといまでも記憶しています。

わたしは幼いころから病弱でした。
3歳の頃には大病をして入院・手術をしました。

半年余りを経て退院、保育所に戻ったのですが、周囲の子たちが既に友好関係を築いていた状態の中に入っていかなければならず、集団生活という概念もわからず、輪の中に入る方法すらわかりませんでした。

そのような中で、わたしは ひとり遊びをすることに楽しみを見出しました。
それからはずっと、ひとり遊びを楽しんでいたのですが、先生方や周囲の大人はその姿を悲観的にとらえていたようでした。

自分にとっては自然体で行動していただけなのですが、心のどこかで、
『わたし・・・、何だかいけないことをしているのかな・・・?』と、気にしていました。

そう気にしながらも、どうしていいのかわかりませんでした。

 

 

『わたしは周囲の子たちよりも遅れている。
はっきりとそう感じ始めたのは、小学校に就学してしばらく経った頃でした。

次第にその思いが、劣等感に変わり、そして強迫観念にかられるようになりました。

体が病弱であることは変わらず、耳の疾患やアトピー性皮膚炎などに罹り、両親を悩ませました。
『わたしはこの先、まともに生きていけるのだろうか?』と、
子どもながらにも、度々不安に思ったものです。

 

生きるために美術を選んだ

 

周囲の子たちと馴染めないこと、つきまとう劣等感、いじめや誹謗中傷、病弱な体、そして絶え間ない不安に苛まれる日々でしたが、そこからわたしを救ってくれたのは美術でした。

物心つく前から、鉛筆で広告の裏紙に落書きをするのが好きだったのですが、年齢に準じて与えられてきた折り紙や絵の具などの図画工作の道具に何とも言えないわくわく感を覚えたものです。

 

 

美術の授業には、常に前のめりで臨んでいました。

新しい道具、表現方法、歴史・・・、何もかもが新鮮でした。

中学校では3年間美術部に在籍し、鉛筆デッサンやアクリル画を学びました。

高校でも3年間美術部に在籍。
造形作家だった顧問の先生から、美術の授業と部活を通して本当に沢山のことを教わりました。

そして、次第に美術大学に進学したいという気持ちが湧いてきました。

3年生の頃、美大受験を見据えて、それまで5年続けてきたアクリル画から油彩画へ転向しました。
油彩画は扱いが難しい画材で、水彩画やアクリル画の経験があっても、最初は戸惑うことばかりでした。

美術の学習塾もないような田舎だったので、油絵の具の使い方を誰かから教わる機会がありませんでした。

唯一、頼ることができたのは、書店で購入した『油絵入門』という教本でした。
その本がその後、5年以上に渡ってわたしが美術を学ぶための宝典になりました。

きっとあのとき、ほぼ独学で学ぶ機会が得られなかったら、真剣に学ぶ姿勢は身に付かなかったと思います。

そして、何よりも後々の人生を支え、導いてくれたのは、
”まるで、小さな子どもが新しいことに興味を持って学ぶときに感じるような、この上ない幸福感”をそのときに感じたことでした。

 

わたしはその後、両親の反対を押し切って他県の美術大学に進学しました。

 

全てをかけて精一杯学んだ学生時代、作家活動、そして挫折

 

念願だった美大への進学を果たし、新生活に心躍るような気分でいましたが、それは束の間のことでした。

「平面作品(絵画)の可能性は出尽くした。これからは立体作品(現代美術)の時代だ。」
(当時は空間にモノを置いたり、映像やテクノロジーを使った作品が流行していました)

そのような言葉が度々聞こえてきました。
当時の大学というところは、現代美術を誤認識した人たちが大勢いる場所でした。

 

当時の美術界の混沌とした状況、同期学生の間に蔓延する諦めムード、そして皆が学生という立場を選んだにも関わらず、まるで生徒時代の延長のような受け身の姿勢が常態化している学部。

多くの教職員の方々は、
「社会は厳しいところだよ。君たちは温室にいるようなものだよ。」と、わたしたちを揶揄しながら、脅かすようなことばかりを繰り返し言ってきました。

それらに形容しがたい違和感を覚えながらも、
「他人は他人、流されてはいけない。」と、自分に言い聞かせながら学び続けました。

そのような中、何気なく支えにしてきたのは、かつて進学を目前に控えたわたしに父が教えてくれた、
「大学は単に学ぶ場所ではない。生涯に渡り、何をどう学んでいくかを考える場所だ。」という言葉でした。

 

『せっかく田舎から出てきたんだから!』
と、半ば意地を張りながら精力的に学んでいたわたしは、同期の中でも浮いた存在でした。

次第に、一部の教員の方々から、
「実に熱心な学生だ!」と、大げさに持ち上げられるようになり、他の学生を焚きつけるために利用されることが増えていきました。

それは、わたしにとっては、不本意なことでした。
徒に買いかぶりを続けてくる相手の思惑が解っていただけに、重苦しい嫌悪感を覚えました。

『これは、人に対して最もしてはいけないことだ!
ましてや、美術という、半ば数値化できない世界において・・・!!』

わたしは真剣に学びながらも、自分の意志とは裏腹に作られていった虚構の中で生きなければならなくなってしまいました。

当時のわたしは、毅然とした対応を取ることができなかったのです。
不本意なことを拒否する勇気が持てなかったのです。

それがゆえに、繰り返し深く傷つきながらも、絵を続けていくしかありませんでした。

 

本当に、本当に真剣だった・・・

早朝、夕方、土休日は生活費を稼ぐためのアルバイトに出て、ようやく深夜に下宿に戻ってくる日々。
大学では、“威勢のいい学生”というレッテルに困惑しながら、落ち着かない気持ちで授業に出続けました。

学生の身で何度も開催した展覧会。
切磋琢磨できる同志もいない中、必要な営業活動や段取りも全て自分で調べながら行いました。

学閥が差し向けたメディア関係者からは、遠回しな嫌味を言われるばかりでした。
”仕方なく来てやっている”と言わんばかりの上から目線と、”実際にありもしない理想像の押しつけ”をしてくることに言いようのない反感を覚えたものです。

『いま、主体的に活動することを選んでいるわたしはバカなんだろうか?』
『同期は、いま行動するのは、傷つき疲弊するだけだと知っていて、あえて大人しくしているだけなのか?』
ある時からそんな疑念を抱くようになり、段々とわからなくなってきました。

 

くる日もくる日も、何もかもが一杯いっぱいで、気が休まることなんてほとんどありませんでした。

 

社会人になってからも、2度に渡り個展を開催したものの、その頃には、

なんで、わたしはこんなにも必死なんだろう?

いったい、わたしは誰のために絵をかいているんだろう?

そもそも、わたしは何がしたかったんだっけ?

・・・・・・・・

疑問符ばかりが浮かんでくるようになっていました。

 

そして、

「このまま、意地を張って続けていったら、確実に自分自身が壊れてしまう・・・」

目前まで迫ってきていた危機を意識した直後、わたしは絵がかけなくなってしまいました。

 

とにかく働きながら、新たに生きる道を模索した日々

 

自分を見失い、目標すら見失ったことに深い失望を覚えながらも、わたしの前には働いて生きていくしかないという現実がありました。

食べていくための仕事として、何が自分に向いているのかさっぱり分からず、募集広告をみて応募を繰り返すも不採用ばかりが続きました。

そして、日雇いの仕事から始まり、フリーターを経て派遣社員という働き方を数年続けた後、食品会社のルートセールスを数年間経験しました。

 

サラリーマンというのは本当に大変なものだと実感したものです。

それでなくとも中途採用だったので、研修期間も短かかったうえ、
「新卒採用者じゃないんだから、この位はできて当たり前でしょう?」と言わんばかりに要求されることばかり。

朝は市場へ向かい、昼は商社や量販店の本部へ商談、夜は配送トラブルの対応に走る日々でした。
そして、何より大変だったのは外への営業よりも、社内営業というものでした。

結局無理が重なって慢性的な睡眠不足に陥り、ある冬の日、運転していた営業車で田畑に突っ込みました。

それから程なくして、体が悲鳴を上げ始め、ついには退職を余儀なくされました。

「やっぱり、わたしは社会不適合者なのかな・・・」

再び深い落胆を憶えたものです。

 

ヨガと出会う、そして不思議な人たちとの出会い

 

その後、社会復帰を目指して自宅療養を続けていました。

ある春の日、自宅のポストに届いたタウン誌をぼーっと読んでいたときに、ヨガスタジオの会員募集の広告に目が止まりました。

「運動は苦手だけれど、ヨガだったら、社会復帰のためのよいリハビリになるかもしれない。」

そう思いながら、そのヨガスタジオに電話をかけた翌日から、わたしはヨガを始めることになりました。

初めてのヨガを担当してくださったインストラクターの女性に、体だけでなく、心の面でも固く弱っていることを見抜かれ、ズバリと指摘されました。

ときに厳しく、それでいて注意深く寄り添ってもらいながらのレッスンを半年余り続けたのですが、体調も良くなり、心の面でも安定感を得るに至りました。

1年後には、そのヨガスタジオが推奨している海外のヨガスクールの国内レッスンにも参加して、呼吸法や瞑想を学びました。

その後、ヨガのリトリート(合宿)で、インドやバリ島にも行きました。

ヨガを続けている人というのは、往々にしてスピリチュアルを信じて取り入れている人が多いものです。
多種多様な人や考え方に触れ、多くのことを学びました。

同時に、それは目に見えない、形のないものを扱う世界でした。
それがゆえに、スピリチュアルにおいては良い面とそうでない面も沢山見てきました。

スピリチュアルの世界とは、かつて学んでいた美術よりも、さらに数値化できないもの。
だからこそ、そこでは自分なりの信念というか、あり方をきちんと持つことが大切だと思っています。

わたし自身も、多少の心得を学びましたが、だからこそ、あり方そのものに細心の注意を払っていくべきだと、常に自分に言い聞かせています。

 

幸せだけど、何かを置き去りにしている気がしていた

 

夫とは、営業の仕事をしていた頃に出会いました。

紆余曲折の後、2年余りの同棲生活を経て結婚。

程なくして、リーマンショックが起きて、当時夫の勤めていた会社は倒産。
新婚ムードどころではありませんでした。

それからというもの、長く続いた不況の中、共働きで何とか生活してきました。
経済的に豊かな生活とは言えませんでしたが、幸せな生活が続きました。

幸せだけど、心のどこかで何かを置き去りにしているような気がしていました。

独身の頃は、“社会についていかなければいけない”という強迫観念にも似た気持ちが常にあったのですが、それが幾分か和らいだ代わりに、今度は停滞感にも似た感覚、そして焦燥感が訪れました。

それに気づきながらも、向き合う余裕も持てず歳月を重ねました。

 

夫はわたしよりもひと回り年上。
彼の両親は、出会った頃には 既に70歳を超えていました。

東北の山奥で農業をしながら倹しく暮らす義父母。
紙一枚でも喜ぶような人たちでした。

ゴールデンウイークやお盆には、新幹線とレンタカーで半日以上かけて帰省しました。

 

歳月が経つにつれて、義父母もさらに年を重ね、次第に怪我や病気などを繰り返すようになりました。
それに伴って、帰省をすることも度々ありました。

毎回、夫と2人で始発の新幹線に乗るために、早朝からスーツケースを引いて歩きながら、
「こんな生活、いつまで続けられるだろうか?」と、思っていました。

それでも、少なくともあと5年、いや10年くらいは続くと思っていました。

あの日までは・・・

 

義父母との突然の別れ、そして度重なる試練

 

あと数週間経てば、桜の季節を迎える時期でした。
明け方の3時頃に、義弟からわたしに一本の電話がかかってきました。

程なくして、義父母が深夜に起きた事故で亡くなったことを知らされました。

義実家も全壊したとのこと。

残雪の残る夫の故郷に駆け付けることができたのは、翌日のことでした。

お湯の出ない公民館で、駆け付けた親族と過ごした数日間。
わたしは夫と義兄弟の気持ちを慮り、懸命に煮炊きや作業を行いました。

この頃から、長きに渡る苦悩が始まりました。

血が繋がってないばかりに、夫や義兄弟と同じ気持ちになってあげられなかったことに苦しんだのです。

 

それから半年が過ぎようとしていた頃、今度は夫の故郷に台風が襲来。
土砂災害が起こり、そこは被災地になってしまいました。

道路の復旧を待った後、夫とふたりでそこへ向かいました。

変わり果てた故郷を目前にして、ぼう然とする夫。

そして、
「こりゃあ、人力では無理だなぁ。過疎地だから若い衆もいないし・・・。」と、つぶやいたのでした。

 

義実家の跡地の片付けをして、災害で怪我をした親族を見舞った後に帰路についたのですが、自宅に戻ってきてからも、わたしは何とも言えない葛藤に苛まれました。

そして、思い立ったのです。

「自分の不甲斐なさや力不足で、目の前の大切な人すら十分に支えてあげられないような経験を、もう二度としたくない!!」

次の瞬間、わたしはスマホで重機の教習所を調べ、懸命に学んで試験を通過し、講習証を取得しました。

実際には被災地で重機に乗ることはありませんでしたが、災害ボランティアとして働きました。

 

ただ、一心不乱に、
『きっと、いまこれが遣るべき最善のこと・・・!』
と、思いのまま行動するだけでしたが、それに伴うかのように、
『これで良かったのだろうか?』
『もっといい遣り方、ふさわしい方法はなかっただろうか?』
『そもそも、わたしの遣っていることは正しいのだろうか?単なる自己満足ではないのか?』
などと思い悩むことも増えました。

そして、日常のなかでも、不思議と ”時間泥棒”、”エネルギー泥棒”とも言えるような人たちが近づいてくるようになり、度々しんどい思いをしました。

 

「本当の意味で、人の気持ちや痛みに寄り添うということが、どんなことなのか?」

苦悩と共にそれを深く考え続ける日々がしばらく続きました。

 

一本の糸が通ったかのように全てが繋がる

 

幼いころから、様々な困難が立ちはだかっても、自分なりに精一杯生きてきた。

時には目標に向かって精一杯努力してきた。

同志がいない中でも、たとえ傷ついても続けてきた。

目標を失ってもなお、生きる道を模索して進んできた。

時には、誰よりもいち早く立ち上がって周囲を先導することだって何度もしてきた。

なのに、なのに・・・

「わたしはどうして、常に後ろめたい気持ちを抱えて生きているんだろう?」

思い悩んだ末に、自分を深く見つめる時間を取ることを数か月続けた結果、
これまでの人生の中で繰り返してきた失敗や挫折の根本原因は、そこにあると確信しました。

それから時間はさほどかかりませんでした。

 

『わたしは遅れてなんかいない。むしろ、それどころか先駆者なんだ!』

わたしは世間一般のことも、まだまだ何も知らない物知らずだけれど、それでも絶えず学問をしていくことで、その先にはみんなとの幸せがあるはずだと、根拠のない自信が沸々と湧いてきたのでした。

その直後から、わたしは再び猛烈に学び始めました。

義父母が旅立ったあの日から、4年近くの時が過ぎようとしていた頃、世界はコロナ禍に陥り、それまでの日常は一変しました。

多くの物事もオンライン化が加速しました。

そのような中で、ふとしたきっかけから、海外のオンライン授業に参加することになりました。

当時、英語はほとんどできなかったのですが、受講を続けるうちに、前後の言い回しや相手の手ぶり、空気を読むことで、相手が何を言っているのかがざっくりとだけどわかるようになりました。

海外の健康学や古典文学、ヨガ哲学など、ちょっとでも興味があるものには挑戦していきました。

授業を受けていたのは、3時間前後の時差がある国ばかりだったので、昼間に仕事をしながらも、自宅に戻ってから授業を受けられるケースが多かったのはラッキーでした。

 

そのような生活が1年程続いたのですが、ある日の午後にそれは訪れたのでした。

何気なく部屋に飾っていた花に目を向けたときに、ふと”絵をかきたい”気持ちが湧いてきました。
部屋の片隅にしまってあった古い透明水彩絵の具を引っ張り出して、手芸用の筆を使ってかき始めました。

長いブランクを経ていたので上手くはかけなかったのですが、納得できるところまでかき上げました。
そして、再び絵がかけるようになったことを実感したとき、窓の外から入ってきたそよ風を感じたとき、まるで祝福されているような気持ちになりました。

部屋に差し込む柔らかい光に照らされながら、ある先達の言葉を思い出しました。

「あなたが人生で持ちえた能力はあなただけのものではなく、他の人々に分け与えるためにあります。」

 

かつて、長きに渡って、
「わたしは、周囲の人たちよりも遅れている」という気持ちでいたわたしが、いま、

「子どものような心で新しいことを学んだ先の延長線に、みんなとの幸せがある。」
と、信じて人生を進んでいます。